2013年04月02日
◎安倍は再可決してでも0増5減を実現せよ
民主党ポピュリズムの再燃に踊らされるな
一般には分かりにくい衆院の選挙制度に関する与党と民主党の攻防を読み解けば、抜本改革は両方とも実現性に乏しく相打ちでつぶれる流れだ。残る0増5減の区割り見直し法案については、民主党が昨年末の自公民公約を見事に裏切って反対に回り、阻止に動く構図だ。衆院は0増5減が可決されても、参院で否決される可能性が出てきた。しかし世論の大勢は0増5減先行処理だ。ここは何でも反対党に“先祖返り”した民主党にかまっているときではない。政府・与党はたとえ参院で否決されても衆院で3分の2の多数で再可決による成立にこぎ着けるべきだ。
とにかく、選挙制度を巡る論議は、与野党共に国民をいかに“だます”かが先走っており、不愉快極まりない。民主党にだまされたおかげで、近ごろの国民はガバナビリティ(被統治能力)が養われてきており、そこいらの三流政治家の姑息(こそく)な対応はすぐに見破られるのだ。見破れない場合は、当ブログが見破るのだ。政党トリッキーのナンバー1は、最高裁の違憲判決が求めているのは「1票の格差是正」であって、選挙制度の抜本改革ではない。それにもかかわらず民主党が「80人減らします」と言えば、自民党が「30人減らす」という、ピントの外れた「身を切る改革合戦」に走ってしまっていることだ。だれも数が多いからけしからんと言っているものはいない。議員1人年間1億円程度は国家にとって「必要経費」である。多様な民意を反映するには現行の定数程度は必要だ。
抜本改革の中身を見れば、自民党案は「比例を30議席削減し、削減後の定数150のうち、90議席は従来通りの方式で全党に比例配分する。残りの60議席は2位以下の政党だけで比例配分する」という内容。これは比例1位の政党に投票した1票の価値が、2位以下が優遇されることにより低下することを意味しており、憲法違反は明白だ。まさに「違憲判決」に「違憲改革」で対処するという荒唐無稽(むけい)の内容だ。
一方で民主党は、小選挙区で30、比例代表で50の定数を削減し、小選挙区は「1人別枠」を完全に廃止して厳密に人口比例で配分するとの新たな案を国会に提出するという。総数80人の“人身御供”を差し出しますというのだ。確かに民主党に多いポピュリストはいない方がいいが、先の選挙で多くが落選して、いまの数は56人。しかも離党の波はまだ消えていない。その民主党が自分の数より多い、80人も減らすと言っても、他党が「おっしゃるとおり」となるわけがない。説得力がないのだ。「他人の懐に手を突っ込むな」と言われるのがオチ。できもしないマニュフェストで国民を欺いて罰を食らったことをもう忘れて、今度はできもしない選挙制度改革で国民に“媚び”を売る。この政党の“ビョーキ”は慢性化で全治不能かもしれない。ようするに自民案も民主案も抜本改革案は、互いに批判し合っても目くそ鼻くそを笑うの類いだ。
さらに民主党の犯した二重の誤ちが0増5減に反対に転じたことだ。0増5減については昨年春に首相・野田佳彦が賛成したにもかかわらず、当時の幹事長・輿石東が解散を恐れて先延ばしにして、結局年末に法案が3党合意に基づき成立した。しかし、このポピュリズム政党は高裁判決で「時こそ至れり」と判断、またまた大誤算をした。社会部ペースで新聞紙面に踊る「違憲」「無効」の文字に飛び付いて、「これはいける」と思ったに違いない。その最大の根拠は11年の判決で最高裁が示した「全都道府県にあらかじめ1議席を配分する1人別枠方式が格差の要因」とする判断を、札幌高裁などが「実態は別枠が維持されている」と批判したことにある。細野はこれで鬼の首を取ったように「また最高裁で違憲判決が出る」と主張して、80減に固執しているのだ。
しかし考えてみるがよい。突出した「無効判決」などは言うに及ばず、0増5減までを違憲と示唆する判断は極めて少数である。だいいち年末の法改正で1人別枠は除去されている。最高裁が0増5減を成立させて以降も司法の介入になるような「田舎の目立ちたがり判決」を維持するとはとうてい思えない。民主党が最後に頼りにすべきマスコミも読売や毎日が社説で0増5減を裏切った民主党の批判に回った。論調の方向は0増5減先行処理だ。民主党はセンセーショナルな当初の新聞や民放の報道だけを判断材料にする主体性の無さを露呈して、置いてけぼりを食らったのだ。要するに、当初から指摘しているように政党の利害が衝突する抜本改革と格差是正は別物であり、分けて考えるべきなのだ。
★◎俳談
まさをなる空よりしだれざくらかな 風生
この富安風生の句をみて庭にしだれ桜を植えて30年になる。死んだ子どもと一緒に飢えた桜だ。例年より2週間も早く満開になった。一句は風生最大の傑作。漢字は「空」しか使っていない。その仮名が花のありようを見事に表現している。一句一章の狂いのない確かな切り取り方である。、一句一章とは、句切れを入れず十七音で自由に表現しようとした考え方である。逆に二句一章とは、俳句の中に句切れを入れて季語を含む部分とそれ以外の部分に分けると、二つの概念が響き合って一章を形成するという考え方である。