2013年04月04日
◎民主はまるで“馬糞の川流れ”状態だ
離党者続出でばらけはじめた
民主党がまるで川に捨てられた馬糞のようにばらけて流れ出した。政界ではこれを古くから「馬糞の川流れ」と称する。「崩壊過程に入った」とする声も出始めた。逆に牛糞は川に流すと固まる。自民党は牛糞で作った筏(いかだ)の如く大河の主流を制して征(ゆ)くのである。民主党は参院選を控えて、難破船から逃げ出すネズミがちょろちょろ出始めたと思ったら、今度は自民党の“工作”が利いて、閣僚経験者まで離党。無能な執行部はなすすべを知らない。
貧すれば鈍するで、民主党の国会質問は代表・海江田万里も幹事長・細野豪志も迫力に欠け、ピントも外れて聞くに堪えない。党幹部に“次善の選択”をするしかなかったことが、響きに響いている。参院議員・小西洋之のように、憲法を逐条的に取り上げて、その内容を首相・安倍晋三に質すという、愚劣極まりない質問者も現れた。どうしてこんな党になってしまったのか。
もともと民主党は虚構の上に成り立っていたのだ。自民党から社会党左派までかき集めた寄り合い所帯であり、選挙互助会であった。これが政権党になりたい一心で固まり、鳩山由紀夫、小沢一郎、菅直人による3頭立て馬車のトロイカが成立した。09年の選挙はこれに、でたらめのマニフェストが加わり、国民をだましにだまして圧勝した。しかしすぐに馬脚は現れた。トロイカは「とろいか?」でとても一国をまとめられる人材ではなかったのだ。「トラストミー。最低でも県外」の鳩山。西松献金で限りなく黒に近い小沢。尖閣衝突事件で国を売り、原発事故を加速させた管。最後にまともな首相・野田佳彦が出たが、時既に遅しだった。
総括の党大会では報告書で「マニフェストは実現性を欠いた」「官僚との意思疎通を欠いた」と反省。「政権担当能力を身につけ再生するのは容易ではない」と締めくくったが、事の重大さを三流評論家の他人事のように形容して何になるかだ。こうした中で党内には参院選は民主党では戦えないという空気が横溢し始めた。それもそうだ。政党支持率は読売を例に取れば、自民党45%に対して民主党はたったの5%。9分の1であり、他社の調査も同様の傾向を示している。北九州市議選では第4党に転落した。共産党よりも下だ。
3年3か月の民主党政治の体たらくに対して、国民の怒りはおさまっていないのだ。こうして新年になってまず補正予算の参院での採決を巡って離党者が出て、同予算は難なく成立。ねじれの解消現象である。こうした中で前復興相・平野達男の離党だ。直感的に自民党の働きかけがあると見て、調べると案の定だ。二階俊博が1月から離党の根回しをしていた。自民党としてはにっくき小沢の牙城である岩手を突き崩すチャンスと見たのだ。平野は自民党の刺客となったのだ。こうして総選挙以来5人目の離党者が出た。民主党執行部は見せしめのために“除名”にしたが、平野は馬糞から外されても、牛糞があるから何の痛痒も感じない。現在民主党は84議席、自民党は83議席。選挙を待たずに逆転する可能性がある。
せめて参院選挙では、野党が一致して戦わない限り自民党圧勝の流れは変わらないが、いまの執行部にその根回しをできる人物はいない。民主・みんな・維新の選挙協力ができなければ一人区は勝てない。二人区も維新は自民票を狙うというより、民主票の突き崩しを狙っており、既にみんなと選挙協力を実現させた。細野はもう選挙協力は無理とみたか、石原慎太郎ペースの改憲綱領に難癖をつけ「憲法観が異なる」と述べて、維新との参院選での共闘を断念する方針を表明した。ところが維新の国会議員団幹事長・松野頼久から2日、「もともと選挙協力の話はしていない。別々の政党なので、それぞれの立場で戦うのは当たり前」と切り返されては、ぎゃふんとならざるを得まい。
逆に維新共同代表・橋下徹から「民主党は憲法を改正すべきかをはっきりすべきであり、改正すべきだと考えている人とは1つにまとまるべきだ」と持ちかけられた。改憲論者は党を割って維新と合流せよとの誘いである。改憲勢力が合流となれば、ネズミが逃げ出している現状とは異なる。前原誠司や野田佳彦の顔がすぐに浮かぶが、彼らが動けば一挙に政界再編へと発展するのだ。こうして馬糞の流れは川に融け込んでしまいそうになってきている。最近成長著しいが故に、代表・渡辺喜美からいじめられているみんなの幹事長・江田憲司が「民主党は崩壊過程だ。頑張ってもまた政権交代の一方の雄になれる状況認識にはない」と切り捨てているが、もっともである。
★俳談
◎選句能力
春風に乗りたるごとく配達す
先に「俳句は多作」と指摘したが問題はその後だ。作ってしまった駄句の山を前にして、何を選ぶかが問われるようになる。自作の句の中にダイヤモンドが入っているかも知れないが、それを見極める能力がないのでは、それこそ宝の持ち腐れとなる。その能力をいかにつけるかだ。
それには新聞の俳壇でも、古今の俳人の作でもよい、秀句を絶えず読み砕き、感性の中に埋め込むことだ。そうすれば自ずと選句の基準が脳内に形作られる。作句能力に劣らぬ選句能力が身につけば、鬼に金棒となる。